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新潟地方裁判所長岡支部 昭和53年(ワ)27号 判決 1985年3月29日

原告

中村悦子

右法定代理人親権者父兼原告

中村盛悦

同母兼原告

中村ムツ

原告ら訴訟代理人

中村洋二郎

栃倉光

高橋勝

工藤和雄

中村周而

足立定夫

味岡申宰

被告

日本赤十字社

右代表者社長

林敬三

右訴訟代理人

饗庭忠男

小堺堅吾

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実《省略》

理由

第一不法行為に基づく請求の当否

一請求原因一の1は、原告悦子が昭和四七年一二月六日に酸素投与を受けたかどうかとの点を除いては、当事者間に争いがなく、同原告が昭和四七年一二月六日に酸素投与を受けたことを認めるに足りる証拠はなく、かえつて<証拠>によれば、同原告に対する酸素投与は昭和四七年一二月五日を最後に打切られ、同年同月一六日には酸素投与は全くされていないことが認められる。

二以下、請求原因一の2について検討する。

<証拠>によると

1  原告悦子は生後六か月経ち、普通ならば笑う時期になつても笑わないので、原告ムツは不思議に思つていたが、昭和四八年五月、定期検診のため保健所に赴いた際、何も言われず、同年一一月の定期検診の際、寄り目なので眼科医に診て貰つた方が良い、と言われて昭和四九年四月、被告病院に赴いた。

原告悦子を診察した被告病院眼科医は、同原告の両眼が十分に散瞳しないので異常を感じたものの、確定的な診断はしなかつた。

2  原告悦子は昭和五〇年二月、新潟大学医学部附属病院眼科で診察を受けたところ、両眼とも網膜、脈絡膜萎縮がみられ、硝子体は混濁しており、未熟児網膜症(Retinopathy of prematurity)と診断され、同年一二月、新潟県知事から視覚障害者(一級)と認定された。

3  原告悦子は現在、盲学校に通つているが、左眼は完全に失明しており(昭和五四年頃までは光覚弁程度であつた)、右眼は眼前の手動を識別する程度の視力(手動弁といわれているが、社会生活上は失明と同視される)しか有しないこと。

が認められ<る。>

三<証拠>によると

1  本症の症例報告は昭和一七年、テリーが未熟児の水晶体後部に灰白色の膜状物を形成する失明例を報告したのをもつて嚆矢とするが、テリーは昭和一八年、本症をRetrolental fibro-plasia(水晶体後部繊維増殖症)と命名した。

テリーらは右膜状物を胎生期組織遺残と考えたが、昭和二四年、オーエンスらはこれを否定し、ビタミンE欠乏説を唱えた。

しかし昭和二六年、キャンベルは保育器内の未熟児保育時の酸素投与に病因を求め、その後、多くの疫学的研究及び動物実験がこれを確認し、一日の酸素投与量、投与期間は発症率と正比例するため、未熟児保育はいわゆる酸素制限時代に入つた。

酸素制限により本症の発症は激減したが、一、五〇〇グラム以下のいわゆる極小未熟児の存命率が高まると同時に、本症の発症が増加するようになつた。

2  わが国においては昭和二四年、三井幸彦らがはじめて本症についての症例報告をなし、キャンベル後は藤井としらによつて酸素原因説が紹介され、未熟児保育における過剰な酸素投与(必要がないのに酸素投与を開始、また一日の投与酸素量が多く、投与期間が長いもの)が警告され、沈静期を迎えたが、昭和三九年以降、植村恭夫らは症例報告をなすようになり、過剰な酸素投与が再び警告されるようになつた。

なお植村恭夫らは昭和四一年、病名はRetrolental fibroplasiaよりもソウスビィ(Sorsby)提唱のRetinopathy of prematurityが妥当であり、その訳語を「未熟児網膜症」または「未熟網膜症」とすべきことを唱え、以来、本症は「未熟児網膜症」と呼ばれるようになつた。

その後、酸素投与が全くなされていない未熟児、または死胎児にも本症が発見されていることから、本症の発症原因は全く不明である、とか、第一の原因は、未熟児の生下時体重、在胎期間が象徴する未熟児の網膜血管の未熟性である、との説も唱えられたが、酸素投与期間、投与酸素量が本症の発症と結びついていることは今でも否定されておらず、結局、本症は、未熟児の網膜血管の未熟性を遠因とするが、直接には保育器内の未熟児に対する酸素投与に因つて発症することが多い、と理解されている。

3  右のような考えを前提として、本症の発症機序は、「胎児の網膜血管は胎生八か月では耳側血管が鋸歯状縁まで達していないため、未熟児の網膜血管の新生は胎外環境で行われる。この新生血管は酸素の過剰にも不足にも敏感に反応するが、過酸素においては血管は強く収縮し、不完全あるいは完全閉塞を起す。この血管の収縮、閉塞により循環障害を起し、血管末梢部の低酸素状態、代謝性終末産物の増加をもたらすため網膜浮腫、血管増殖を起し、増殖した新生血管が硝子体中に侵入し、網膜を牽引して剥離をきたす」とされている

ことが認められる。

そして右認定事実を総合すると、保育器内の未熟児に対する酸素の投与は本症発症の重要な原因の一つとみることがでぎるから、被告病院に入院中、酸素投与を受けた原告悦子は、右酸素投与に因り、本症に罹患するのが相当である。

四未熟児に対する酸素投与が本症発症の重要な原因の一つであることは前記のとおりであるから、未熟児に対し無制限に酸素が投与されてよい筈はなく、酸素は一定の制約のもとに投与されるべきである。

そこでまず昭和四七、四八年当時、未熟児にはいかなる制約のもとに酸素は投与されるべきものとされていたかどうかについて検討する。

<証拠>によると、昭和四三年から同四六年にかけて、竹内徹、村田文也らは、保育器中のいわゆる環境酸素濃度が四〇パーセント以下でも本症発症の危険があるから、未熟児にチアノーゼ、呼吸困難がある場合に限り、酸素を投与すべきである、と主張していることが認められる。

しかし<証拠>に照らすと、右竹内徹らの見解が昭和四七、四八年当時の有力説であつたとまでは言い難く、ほかにそのころチアノーゼ、呼吸困難が認められる場合に限つて未熟児に対し酸素を投与すべきである(請求原因一の4の(一)の(1))との見解が有力であつたことを認めるに足りる証拠はなく、かえつて右証拠によると、昭和四七、四八年当時、少くとも生下時体重一、五〇〇グラム未満のいわゆる極小未熟児(原告悦子もこれに当る)に関する限り、右竹内徹らの見解は少数説であり、このような未熟児は肺機能が未発達であるためしばしば呼吸困難を来し、しかも一旦無酸素症に陥ると回復し難い脳出血、脳障害を起し、死に至ることが多いため(昭和四七、四八年当時、極小未熟児の死亡率は五〇パーセント前後であつた)、このような未熟児は出生後、可及的速やかに保育器内に収容し、チアノーゼや呼吸困難がなくても、直ちに酸素を投与する(但し本症の発症を防ぐため、保育器内の酸素濃度は三〇ないし三五パーセントが望ましく、最大四〇パーセントに抑える。酸素濃度は器内の濃度計で多数回計量する。酸素投与は急激に停止すべきではなく、逓減すべきである)との見解が大勢を占め、未熟児保育の実際もおおむね右見解に従つてなされていたことが認められる。

次に昭和四七年ころ以降の酸素管理について検討する。

<証拠>によると

昭和四六年、アメリカ小児学会胎児新生児部会が保育器内で酸素投与を受ける児の本症発症を防ぐため、その動脈血酸素分圧(PaO2)の値を六〇ないし八〇mmHgに保ち、一〇〇mmHgを超えないことを勧告したが、これは奥山和男らによつてわが国にも紹介され、昭和四七年、永田誠らも、本症発症予防のための酸素管理につき、保育器内の環境酸素濃度測定よりも継続的なPaO2値の測定の方が望ましい(但し実施面に困難があるからチアノーゼを指標にせざるをえない)と述べた。

そのころから一部の医療機関では児から採血してPaO2値を測定し、酸素管理に役立てようとする試みがなされていたところ、昭和四九年、山内逸郎は動脈血酸素分圧値を連続的に測定できる経皮的血液酸素分圧値測定器をドイツから持ち帰り、酸素投与を受けている未熟児のPaO2値を連続的に測定したところ、未熟児の状態により右値は短時間(例えば一分間)のうちにも大きく変動することが明らかとなり、それまで行われていた採血による測定ではその変化を把握できず、検査効果の乏しいことが判明した。

しかし右経皮的血液酸素分圧測定器は極めて高価(一台およそ一、〇〇〇万円位)なうえ、一人の未熟児に一台設置しなければ検査効果がないことやその測定法が経皮的、間接的なものであるため必ずしも正確なPaO2値を得られない欠点を有することなどのため、未だ十分に普及するに至つていない。

従つて未熟児に対する酸素管理は採血による動脈血酸素分圧値の測定結果に頼らざるを得ないが、この方法は児に対する侵襲が極めて大きいので頻回検査に限度があり、モニターとしての役割を十分に果しておらず、加えて近時では、動脈血酸素分圧値を六〇ないし八〇mmHgに保つても本症が発症した例が報告されている。

以上の次第であるから、今日においても保育担当医が未熟児に対して酸素投与を行うにあたつては一般に、断続的な動脈血酸素分圧値の測定結果のほか、従来から行われている保育器内の酸素濃度やチアノーゼの有無などの臨床所見を目安に、なるべく酸素投与量を少なくし、特に無呼吸発作の間欠期や呼吸障害からの回復期に酸素が過剰に投与されないようにする以外に適切な管理方法はなく、結局のところ、出生後における本症の発症予防には大きな限界があるので、根本的には、未熟児(とりわけ極小未熟児)の出生そのものを予防するほかないとさえ言われている

ことが認められる。

五いわゆる「眼か脳か(死か)」の問題上、発症予防のための酸素調節にも難しい点があるが、仮に本症につき有効適切な発症予防法があるとしても、もともと本症には眼底に前兆、先駆症状が現われるものではないから、眼底検査は発症予防のためには無意味であり、現にこれまでも眼底検査は治療との関連において必要性が説かれてきた(<証拠>によると植村恭夫も昭和三九年、本症の早期発見のために眼底検査が必要である、と説き、その後も植村及び高嶋幸男らは、同様理由から未熟児に対する早期かつ定期的な眼底検査の必要性を説いていることが認められる)。

しかし本症の増悪防止、自然寛解のための酸素調節をも含めて本症の治療法にもし有効適切なものがないとすれば、眼底検査は治療との結びつきも失い、それは単に発症の有無、症状の程度、視力の存否を確認するための検査行為に過ぎないといわざるをえない(<証拠>によると、三井幸彦も昭和五二年、治療法が確立していない限り、眼底検査は無意味である、と証言していることが認められる)。

六本症と未熟児に対する酸表投与との関連性が否定できないことは前記のとおりであり、また<証拠>によると、本症の自然治癒率は極めて高く、発症の大部分(九〇パーセント前後)は自然寛解する、とされていることが認められるから、本症の発症を確認したら直ちに酸素投与を制限、または中止すれば、自然寛解が促され、これが一つの治療法になるのではないかといわれることがある。

しかし<証拠>によると、本症は酸素投与期間経過後に発症することが多いから、酸素濃度調節ないし投与の中止が本症に対する有効な治療法たりうる余地は殆んどないこと、また例外的に酸素投与期間中に本症が発症したとしても、酸素投与が適切な投与基準に従つたものである限り、基準以下に酸素濃度を下げたり、投与を中止したりする措置は未熟児の生命や脳に重大な危険をもたらすおそれがあるから、このような措置をとることも妥当でないことが認められる。

更に酸素投与の調節が有効な治療法とされるためには、どのような場合にどのように酸素量を調節すればよいのかについて客観的に明確かつ妥当な基準が存することが必要であるが、いまだこのような基準が存しないことは弁論の全趣旨上明白であるから、結局、前記の如き措置を本症に対する有効な治療法として評価することはできない。

七<証拠>によると

1  わが国においては例えば昭和四二年福田雅俊は本症に対する治療法として活動期における副腎皮質ホルモン剤の投与をあげ、また昭和四六年、植村恭夫も活動初期における副腎皮質ホルモン剤の投与を治療法の一つとしていた。

2  しかし右ホルモン剤の投与については副作用の危険があり、効果自体も疑問視されていたところ、後記厚生省昭和四九年度特別研究班は、副腎皮質ホルモン剤の効果については全身的な面に及ぼす影響をも含めて否定的な見解が大多数であつた、と報告し、その後、同ホルモン剤の使用については消極説が大勢を占め、現在に至つている。

3  かつて本症の予防、治療剤としてビタミンB1、B12、E剤が有効といわれたことがあるが、現在ではこれらも右ホルモン剤と同様の評価を受けている(尤もアメリカでは最近ビタミンE剤が本症の予防剤として注目され、比較対照研究(controlled study)が進行中であるといわれている)。

これが認められ、右認定事実よりすれば本症の予防、治療法として副腎皮質ホルモン剤などの薬剤投与については有効性の証明はない、といわざるをえない。

八<証拠>によると

1  ドイツのメイヤー・シュビケラーママ(Meyer-Schwickerath)が考案した光凝固法(瞳孔を通して眼底に集光性の高エネルギーの光線を送り、直視下に網膜組織を凝固する治療法)は昭和三二年以降秋山晃一郎、坂上英らによつてわが国に紹介され、網膜剥離の予防、治療に用いられてきたが、昭和四二年、天理ようづ相談所病院眼科の永田誠はこれを本症二例に施行したところ二例とも進行停止を確認した、と第二一回臨床眼科学会において報告し、その後も永田は同様成功例を遂次報告し(永田誠は昭和四七年三月一五日発行の「臨床眼科」第二六巻第三号別冊において、昭和四二年から昭和四六年までの五年間の施行二五例のうち一七例は完全治癒した、と総括報告したが、その際、未熟児網膜症発生の実態はほぼ明らかとなり、これに対する治療法も理論的には完成したということができる、とまで述べた)、永田以外にも昭和四七年ころまでの間に上原雅美ら(五例施行、両眼成功二例、片眼成功一例、両眼無効一例)、大島健司ら(二三例施行、著効二一例、片眼著効片眼不良一例、不良一例)、田辺吉彦ら(二三例施行、著効二〇例)、小林裕ら(一〇例施行、成功八例)、本多繁昭(一〇例に光凝固および冷凍凝固を施行し、進行を停止、治癒させた、と報告)らがそれぞれ追試報告をなし、また山下由紀子は昭和四七年、本症の八例に冷凍凝固を施行し光凝固と同様の効果をえた旨を報告し、植村恭夫、奥山和男らも本症の治療法として光凝固を支持した。

2  しかし光凝固に対しては施術の失敗(集光した光線を誤つて黄斑部にあてると失明する)、副作用、後遺障害の有無が不明であることに対する不安および本症の自然治癒率が九〇パーセント前後と高く、施術による治癒か自然治癒かの区別がつきにくいことなどから、前記永田報告後も「危険な治療法である」(昭和四五年、深道義尚ら)、「治療法としての価値の判定は今後の問題である」(昭和四六年塚原勇)などの批判ないし懐疑的見解も根強かつたので、厚生省は昭和四九年、植村恭夫を主任研究者とし、塚原勇、永田誠、馬嶋昭生、松尾信彦、大島健司、山下由紀子、森実秀子、山内逸郎、奥山和男、松山栄吉、原田政美を分担研究者とする「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」のための研究班を編成し、翌五〇年、研究班報告が発表された。

右報告は、一応の診断基準として、活動期の未熟児網膜症をⅠ型とⅡ型に大別し、Ⅰ型は主として耳側周辺に増殖性変化をおこし、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるものであり、自然治癒傾向の強い型のものであり、Ⅱ型は主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極より耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、hazyのためにこの無血管帯が不明瞭なことが多い。後極部の血管の迂曲、怒張も初期よりみられる。Ⅰ型と異なり、段階的な進行過程をとることが少なく、強い滲出性傾向を伴い、比較的速い経過で網膜剥離をおこすことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良のものをいうとし、極めて少数ではあるが、Ⅰ、Ⅱ型の混合型の存在を認めた。

そしてⅠ型の臨床経過を1期(血管新生期)、2期(境界線形成期)、3期(硝子体内滲出と増殖期)、4期(網膜剥離期)に分類し、Ⅱ型はⅠ型のような段階的経過をとることが少なく、比較的急速に網膜剥離に進むとした(なお昭和五七年、研究班は右分類の一部を改正し、菅謙治は「眼科」昭和五九年六月号で、病形を特にⅠ型とⅡ型に分ける必要はなく、Ⅱ型は急性に進行する型、あるいは重症型と考える程度でよい、と述べている)。

右報告は更に瘢痕期を、大部分の視力が正常である1度から、視力障害が高度で盲教育の対象となる4度までに分類し、治療基準としては、未解決の問題点が多く残されていることを前提として、Ⅰ型については行きすぎた治療を施さないように、Ⅱ型については治療時期を失わぬように警告した。

3  昭和五〇年、瀬戸川朝一らは昭和四五年から昭和四九年までの間に五例(七眼)について光凝固を行い、三例治癒の報告をなしたが、三井幸彦、小川次郎、菅謙治らは光凝固の治療効果を疑問視する見解を示した。

4  昭和五一年、名古屋市立大学眼科の馬嶋昭生は片眼光凝固について報告したが、比較対照可能の一二例はいずれもⅠ型であり、右一二例のうち一〇例は施術しなかつた眼が自然治癒しており、残る二例は施術しなかつた眼が悪化したので光凝固を行い、進行をとめた、とのことであつた(右一二例は前記のように自然治癒率の極めて高いⅠ型であるから、右一〇例の施術した眼も施術しなかつた眼と同じく自然治癒した可能性が大きく、残る二例の後に施術した眼の症状停止が光凝固によるものであるかどうかは不明であるから、片眼光凝固についての馬嶋報告は光凝固の有効性証明に左程貢献していないように思われる)。

5  永田誠は昭和五一年一一月一〇日発行の日本眼科学会雑誌第八〇巻第一一号に「未熟児網膜症光凝固治療の適応と限界」と題する宿題報告を発表したが、そこで永田は「未熟児網膜症の光凝固による治療はその最初から小児の失明という劇的且つ深刻な事態と直接関連していた為に、これに対する社会的要請が先行し、その結果として試行、追試、遠隔成績の検討、自然経過との比較、治療効果と副作用の確認、治療法としての確立とその教育普及という医療の常道を踏まず、直接普及段階に入り、現在では不必要な軽症例にまで乱用される傾向があるのではないかとの危惧が生れている。このような事態を招いた責任の一半は筆者にあると深く反省している……」と述べ、植村恭夫も同じ雑誌に発表の「未熟児網膜症の病態について」と題する宿題報告において「光凝固は現在Ⅰ型の一部にみられる進行例と混合型に適応がしぼられてきているが、その奏効機序は不明であり、またその有効性の判定は今のところできていない。今後の厳密な有効性を定める研究が望まれる。Ⅱ型については病態論的に考えてそれ以上に研究が望まれる。それまでは少くともⅠ型における安易な光凝固の施行は戒めるべきである」と述べ、岩田和雄らは、動物実験では光凝固は悪化を促進するとの報告もある、と述べ、光凝固は反省期を迎えるに至つた。

6  昭和五二年、清水弘一らは「未熟児網膜症に対する光凝固の是非には、一時あつたかにみえる楽親主義は姿を消し、再び混迷期に入つている。……近年もち上つてきた反省は、光凝固で治療せしめうる未熟児網膜症は、元来放置しても自然治癒したはずであり、光凝固は単にその治癒過程を短縮しただけに留まるのではないかという点にある。……光凝固を行つた患眼のやや長期にわたる観察では、半年以上経過すると、凝固斑は網膜、脈絡膜全層を貫通する組織欠損となり、凝固斑の中に真白な強膜が露出している事実がしばしば観察される……。上のような事実から、われわれは無差別に本症を光凝固で処理するという暴挙を行うべきではなく……」と述べ、昭和五三年、永田誠は、Ⅰ型について光凝固を施行しても自然治癒との区別は不明である、と述べ、昭和五四年、植村恭夫も永田と同旨のことを述べ、竹峰久雄らは、光凝固は視力障害のための完全な防禦手段とはなつていない、と述べ、昭和五五年、植村恭夫は光凝固、冷凍凝固につき「眼科医としても、このような治療法は永久的瘢痕を残す点からも眼球発達の初期に使用したくない方法であり、緊急避難的立場でやむを得ず使用しているのが現状である」と述べ、更に昭和五六年、植村恭夫は、昭和五〇年当時においても本症のⅡ型について確立された治療法はなかつた、との鑑定意見を述べている。

7  昭和五七年、永田誠は、光凝固の効果についての基本的見解は現在もかわりない、と述べつつ、同時に、将来的研究が必要である、とも述べ、昭和五八年、植村恭夫は、厚生省研究班はⅡ型に対する光凝固についてpro-spective studyを開始すべく準備中である、と述べて光凝固の治療法としての不確立を暗示し、昭和五九年、菅謙治は、有効報告、無効報告を検討のうえ、現段階では凝固治療を有効と断定することはできない、と述べた。

8  菅一男、岩田和雄、品川信良及び木村肇二郎は昭和五四年から同五五年にかけて津、新潟、青森、浦和各地方裁判所において、昭和四七年当時、未熟児網膜症に確定的な治療法はなく、光凝固も治療法として確立したものではなかつた、とそれぞれ意見を述べている。

9  海外においては昭和五二年、ハリス(Gordon S.Harris)らは、光凝固法は有効でも無効でもない、と述べ、昭和五三年、キンガム(James D.Kingham)は、冷凍凝固を一二例報告したがそのうちの一〇例は無効もしくは有害であつた、と報告し、昭和五五年、カリーナ(Robert E.Kalina)は、日本では未熟児網膜症に光凝固あるいは冷凍療法が用いられているが、これらの治療法は危険を伴い、本症は自然治癒傾向が強く、稀にしか重篤な瘢痕症例は出現しないことなどから、将来この研究がなされる可能性は少ない、と述べ、マイケルソン(Michaelson,I.C)は、光凝固や冷凍凝固に関する論文は実験的な論文と考えられている、と述べている

ことがそれぞれ認められる。

以上の認定事実を総合すると、永田誠提唱にかかる本症に対する光凝固およびこれと作用機序をほぼ同じくする治療法である冷凍凝固はいずれも、必ずしも常に無効な治療法とは言い難いが、もともと本症は自然治癒率が極めて高く、自然治癒と治療効果の区別がつけにくく、その区別のための研究も完成していないこと、Ⅱ型(重症型)に対する治療効果も曖昧であることなどからすると、(昭和四七年当時は勿論のこと)現在でも治療法としての有効性が確定したものといえず、最終的結論は今後の研究成果に委ねられている、とみるのが相当である。

九以下、担当医(野口医師)に過失(注意義務違反)があつたかどうか(請求原因一の5)について検討するが、その前に医師の過失の判断基準について考えてみる。

医療行為に従事する医師はその業務の性質上、最善を尽して患者の生命及び健康を守るべき注意義務を負つているが、医療行為は臨床医学の実践としての性質を有するものであるから、医師が具体的な診療行為をなすにあたつて準拠すべきものは、医療行為時点における医療水準、すなわち臨床医学における水準的知識である。

そしてここで留意しなければならないのは、新規治療法が右臨床医学の水準的知識の体系の中に定着していく過程である。

新規開発治療法はその有効性を確信し、主張する研究者により発表されただけで直ちに臨床医学の実践における医療水準となるものでないことは多言を要しない。新規治療法については、通常他の研究者らによつて十分な追試が行われ、遠隔成績の検討、自然経過との対比などを通じてその治療効果、副作用の有無、程度についての確認がなされ、学界レベルで一応正当なものとして認容されて診断・治療基準が確立されたうえ、これが更に教育、訓練を経て一般臨床医のレベルでほぼ定着することによつて、前記臨床医学の実践における医療水準の体系に組み込まれていくものと解すべきである。

また右の如き正当な過程を経て新規治療法が確立されたとしても、それが高度かつ特殊の技術を要したり、あるいは高額の費用を要するなどの事情が存する場合には、その普及は社会的、経済的、地理的要因などに制約され、しばしばある地域よりも他の地域において先に普及したり、ある医療施設では他の医療施設よりも遅れて実施されたりするものであるから、具体的な医師の過失判断にあたつては、当該医師の置かれている右のような環境的状況をも考慮しつつ、その検討がなされるべきである。

一〇全身管理上の義務違反について

1  <証拠>によると、

(一) 被告病院は昭和三四年ころ、新潟県知事から未熟児養育機関の指定を受け、産婦人科で未熟児保育を取り扱い、昭和四七、四八年当時、産婦人科内の新生児室にアイデアル型保育器九台を備えていた。

そして野口医師を含めて四名の医師のもとに、看護婦、助産婦合計約一七名が三つの班をつくり、そのうちの一班が新生児係として未熟児保育にあたつていたが、野口医師は産婦人科部長として総括的な立場で、未熟児を含む新生児全般をみていた

(二) 被告病院への入院時、原告悦子は全身赤色を呈し、皮下脂肪の発育は悪く、頭蓋骨は圧すると陥没するような感じであり、よく泣いてはいたが啼泣力が弱かつた。体温は35.6度Cで冷たく、脈搏一二六、呼吸は不規則で一分間に六六の多呼吸であつた。

これに加えて原告悦子は生下時体重一、三〇〇グラムの極小未熟児であつたため、直ちに保育器に収容され、野口医師の指示により酸素投与がなされたが、本症の発症を予防するため同医師は酸素投与量を毎分三リットル、器内の酸素濃度は三〇パーセントと指定し(同時に器内温度は三二度C、湿度は九〇ないし一〇〇パーセントと指定)、以後、保育器内の酸素濃度はベックマン型酸素濃度計により一日八回ずつ確認された。

(三) 原告悦子の体重は出生後徐々に減少傾向を示し、一一月一七日(生後一一日目)には九八〇グラムとなつたが、その後次第に増加し、一二月六日(生後三〇日目)、ほぼ生下時体重に復し、以後は順調に増加し、退院時(昭和四八年一月一八日)の体重は二、五三〇グラムであつた。

(四) 栄養は、飢餓期間を三日置いた後の一一月九日午前一一時ころからカテーテル挿入による五パーセントブドー糖の強制栄養を開始し、これを逐次増量していつたが、一二月二五日(生後四九日目)にはカテーテルを抜去し、経口人工栄養に切り換えた。

(五) 原告悦子は生後二週間位までは、呼吸の不規則などの呼吸障害がみられ、またチアノーゼも顔面を中心に発現した。その後も軽度の呼吸障害やチアノーゼが断続し、生後三週間位まで続いたが、その後はこれらの症状もとれ、全身状態の安定性がみられるようになつた、

ことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

2  原告らは、野口医師は原告悦子の保育につき、これを看護婦らに任せきりにし、また当初の栄養補給を的確に行わないなど、その全身管理に過失があつた、と主張する。

そこで、右1に認定したところを踏まえて検討すると、昭和四七、四八年当時の被告病院における未熟児保育の体制は、前記のように、野口医師を総括的責任者として、その下に配置された複数の医師及び看護婦らが、定められた基準に従つて各自責任を分担して各未熟児の保育にあたつていたのであるから、野口医師が原告悦子に対する回診その他保育上の個々の措置のすべてを自ら行わなかつたとしても、そのこと自体はむしろ当然のことである。そして証人野口正の証言によると同医師は原告悦子に投与すべき酸素量や保育器内の温度の指定など保育上基本的かつ重要な事項については、自己の責任と判断においてこれを決定し、看護婦らに指示し、各看護婦らは右指示を守つて原告悦子の保育にあたつていたことが認められるから、原告らの非難は当らない。

ただ当初の栄養補給及び保育器内の温度の指定についてみると、原告悦子に対しては約三日間の飢餓期間を置いたうえ、昭和四七年一一月九日午前一一時から栄養補給が開始されていること及び保育器内の温度は三二度Cと指定されたことは前記認定のとおりであり、<証拠>によると、今日では未熟児に対する積極的保育法ということが強調され、飢餓期間をおかず、できるだけ早く哺乳をし、また飢餓期間中でも早い時点でブドー糖の点滴を行い、保育器内の温度も積極的に加温して三四ないし三五度C前後に保つべきである、との考え方が有力であることが認められる。

しかし他方、<証拠>によると、昭和四七、四八年当時、一般には、未熟児は消化器も未熟であり、また栄養物を吐逆して気道閉鎖を起し、死に至るおそれがあるため一ないし三日間の飢餓期間において栄養補給を開始すべきである、との従来的見解に基いて未熟児保育が行われており、野口医師もこれに従つて飲餓期間を設定したこと、保育器内温度を三二度Cと指定するかわりに湿度は九〇ないし一〇〇パーセントと高目に指定したことが認められ、右事実と前記認定の原告悦子の臨床経過(本症に罹患したほかはおおむね順調に推移している)を考えると、栄養補給、器内温度の設定の点に関しても、特に非難すべき点はない。

ほかにこの点に関する原告らの主張を裏付ける事実を認めるに足りる証拠はないから、原告らの右主張は失当であり、採用することができない。

一一酸素管理上の義務違反について

昭和四七、四八年当時の未熟児に対する酸素投与の基準に関する一般的知見は前記(本理由第一の四)のとおりであつて、原告悦子のような極小未熟児については、回復し難い脳出血、脳障害を起し、死亡に至ることも少なくないなどのため、出生後、可及的速やかに保育器内に収容したうえ、酸素投与をなすべきであり、その濃度は三〇ないし三五パーセントが望ましく(最高でも四〇パーセント以下に抑えるべきである)、また酸素投与は急激に停止すべきではなく、逓滅すべきである、とされていたところ、本件における野口医師の原告悦子に対する酸素投与は、前記(本理由第一の一〇)のように、酸素濃度三〇パーセントを上限とし、同原告の全身状態の観察に基づき、投与する酸素量を徐々に減らしていつたもので、当時の医療水準である一般的な知見を忠実に遵守して履行していたものであるから、この点に関する同医師の措置に格別非難すべき点はない。

また野口医師は前記(本理由第一の一)のように昭和四七年一二月五日を最後に原告悦子に対する酸素投与を打ち切つたのであるが、その投与を打ち切つた時期が遅きに失したとみるべき証拠はなく、かえつて前記認定の原告悦子の臨床経過に鑑みれば、右も適切なものであつたと考えられる。

なお原告らは酸素の制限投与説(チアノーゼや呼吸困難が認められる場合にのみ、酸素投与を開始すべきである、との考え)に基づき野口医師に過失あり、と主張しているが、このような見解が昭和四七、四八年当時、少数説であつたことは前記のとおりであり、もともと酸素投与も医療行為の一つであり、どのような医療措置をとるかは担当医の合理的裁量に委ねられている面が少なくなく、それが著しく不当なものでない限りは医師のとつた措置に過失ありとは言い難いのであるから、仮に右制限説が正しかつたとしても、前記認定の入院時の原告悦子の身体状況からすると、その裁量で、保育器収容と同時に、直ちに酸素投与を指示した野口医師の措置は著しく不当なものということはできない。

従つて原告らの酸素管理上の義務違反の主張は失当であり、採用することができない。

一二眼底検査の義務違反について

請求原因一の5の(三)のうち野口医師が原告悦子の入院中、一度も眼底検査を実施せず、そのため同原告の本症罹患が入院中、発見されなかつたことは当事者間に争いがない。

しかし本症発症の予防という観点から見る限り、未熟児に対する眼底検査が無意味であることは、前記のとおりであるから、結局、眼底検査は本症に対する有効な治療方法と結びついてのみ存在意義を有するものというべきであるが、昭和四七、四八年当時、本症に有効な治療法は確立されていなかつたことは前記のとおりである。

そうすると眼底検査は昭和四七、四八年当時、予防、治療の両観点からしても特別の存在意義を有するものではないといわざるをえないから野口医師が原告悦子の入院中、眼底検査を実施しなかつたことを指して過失ありということはできない。

なお念のため、昭和四七、四八年当時における眼底検査の普及度について検討する。

<証拠>によると

1  前記のように植村恭夫らは昭和三九年以降、眼科専門紙ママなどで未熟児に対する早期かつ定期的な眼底検査の必要性を説いたが、その意見は提唱者の期待どおりには浸透せず、未熟児に対する眼底検査は一部の先駆的研究者や本症に特に関心を有する医師が勤務する一部の病院によつて実施されるにとどまつていた(因みに原告悦子出生直前である昭和四七年六月刊行の「眼科」一四巻六号において、大島健司は、未熟児に対する定期的眼底検査は一般にはまだわずかしか行われておらず、これを全国的に普及させる必要がある、と述べている)。

2  昭和四七、四八年当時、新潟県における医療の中心的存在である新潟大学医学部附属病院でも、未熟児に対する定期的眼底検査はまだ実施されておらず、やはり同県内の主要病院の一つである県立がんセンター新潟病院においても、眼科と産婦人科が取り決めを設け、これに基づいて眼底検査を実施するようになつたのは昭和五〇年以降であつた。

また昭和四七年ころまでの間、新潟県内において、医師会などが本症ないし未熟児の眼底検査などについて研修を行つたことは一度もなく、昭和四九年四月に至り、産婦人科集談会において、はじめて未熟児網膜症が演題として取り上げられ、また眼科医を対象とした本症に関する知識修得のための特別講演(講師植村恭夫)が同五〇年五月、新潟市において開催されたような状況であり、野口医師も昭和四七、四八年当時、未熟児に対する眼底検査に対する知識をもたず、従つて原告悦子に対してこれを実施しなかつたことが認められる。

そして右認定の眼底検査をめぐる環境的状況に照らすと、野口医師が右認定のように、眼底検査に対する知識をもたず、原告悦子に眼底検査を実施しなかつたことを非難し、過失ありということはできないものと考えられる。

以上いずれにしても、眼底検査の義務違反をいう原告らの主張は失当であり、採用することができない。

一三治療上の義務違反について

請求原因一の5の(四)のうち野口医師が原告悦子に対しその入院中、何らの治療措置もとらなかつたことは当事者間に争いがない。

しかし同医師は同原告の入院中、同原告の本症罹患を発見せず、これに気づかなかつた(このことは当事者間に争いがない)のであるから、同医師が同原告に対し本症についての治療措置をとることは不可能であり、また患者に対し施行すべき治療は医療水準に照らし、有効適切なものでなければならないが、昭和四七、四八年当時、本症につき有効な治療法が存しなかつたことは前記のとおりであるから、同医師が何らの治療措置をとらなかつたことについては、右いずれの観点からしても、過失ありということはできない。

従つて同医師に治療上の義務違反があるという原告らの主張は失当であり、採用することはできない。

一四説明などの義務違反について

請求原因一の5の(五)のうち野口医師が原告悦子の保護者(原告盛悦、同ムツ)に対し本症の危険性、発症の有無その他につき説明、教示をなさなかつたことは当事者間に争いがない。

しかし医師は患者(またはその保護者)もしくは医療契約の当事者に対し、医療に必要な事項について説明、報告、指導をなすべき一般もしくは契約上の義務を負うが(医師法二三条、民法六五六条、六四四条、六四五条)、原告ら主張のように保育器に収容した未熟児に対し酸素を投与したからといつて担当医は保護者に本症発症の危険性について説明するまでの義務を負うとは思われず、また野口医師は原告悦子の入院中、本症罹患を発見しなかつた(このことは当事者間に争いがない)のであるから、同医師が同原告の保護者に対し同原告の本症罹患、症状の進行程度について説明報告することはもともと不可能であり、更に転医、退院時の眼底検査の必要性、治療法についての説明は(それが法的義務となるためには)本症に対する治療法が確立していることが前提とするが、昭和四七、四八年当時、本症につき有効な治療法は存しなかつたことは前記のとおりであるから、同医師には右のような説明義務はない。

従つて野口医師に説明などの義務違反ありとの原告らの主張は失当であり、採用することができない。

一五請求原因一の6のうち被告病院が医療法四条にいう総合病院であること及び原告悦子が入院中、一度も眼底検査を受けなかつたことは当事者間に争いがない。

しかし未熟児に対する眼底検査が昭和四七、四八年当時、予防、治療の両観点からしても医療行為としての存在意義を有するものでなかつたことは前記のとおりであり、また前記認定の昭和四七、四八年当時の眼底検査をめぐる全国及び新潟県下の環境的状況に照らしても被告に原告ら主張のいわば自動的に眼底検査を行うような体制づくりを期待することは極めて困難であつたと考えられる。

右いずれの理由からしても原告らの被告自身の注意義務違反をいう主張(請求原因一の6)は失当であり、採用することができない。

一六そうすると原告らの不法行為に基づく請求は、その余の点について検討するまでもなく、失当ということになる。

第二債務不履行に基づく請求の当否

原告悦子が被告病院に入院中、本症に罹患し、失明(右眼視力は手動弁であるが、これが社会生活上、失明と同視できることは前記のとおりである)したことは前記認定のとおりであるが、被告の履行補助者である野口医師に原告ら主張の請求原因一の5の(一)ないし(五)の各注意義務違反が存しないことは前記のとおりであるから、被告に原告悦子の保育看護を行うべき契約(未熟児の保育看護に関する医療契約は、特約があれば格別、一般には未熟児を健康体で退院させることを目的とする請負契約ではなく、その時の医療水準に合致した保育看護をなすことを内容とする準委任契約である、と解すべきである。なお本件においては右特約の存在を認めるに足りる証拠はない)上の債務の不完全履行はなく、従つてその余の点につき検討するまでもなく、債務不履行に基づく原告らの請求は失当である。

第三結論<省略>

(上杉晴一郎 戸田初雄 角田正紀)

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